滞在許可証が二つ揃いました、一時帰国は来年1月に延期

(2017-11-19)
(写真は北イタリア、マジョーレ湖畔のストレーザで。数々の思い出の舞台となったであろうとある別荘の廃墟越しに、湖と島が見える。)

前回のブログ更新からまた早くも50日経ってしまいました。この間にあったことを生活面と仕事面の二つに分けてみると、まず、生活面では、やっと家内にも滞在許可証が下り、日本からの妻方家族とイタリア国内での旅行ができ、イタリアの健康保険証についての手続き、日本から9月に送った小荷物についての手続きをしました。二つ目の仕事面では、Datiniシステムから帳簿画像の閲覧、計算機機能のみを取り出しこれに特化したプログラムを独立させたこと、そしてDatiniシステムについては、そのシート構成とマクロ(自動実行コマンド)構成を根本的に組みなおす作業をしているところです。この改編はDatiniシステムの帳簿部分をインターネット上のリレーショナル・データベースに移行するための下準備で、これができればひとつのDatini帳簿について数人がタイプ起こし作業を同時に行うことが可能になります。リレーショナル・データベースとしてはMySQLを利用することになるのではないかと想像しています。今回は生活面のなかの手続きに限って、前回の続編を完結したいと思います。

[家内への滞在許可証]

さて、家内の滞在許可証がその場で下りるかどうかの大事な日、10月2日。9月25日に私だけに許可証が下り、その一週間後のこの日、指紋照合の再トライです。この日は私たちは警察の建物の外で待つことはせずに、断固として建物に入っていきました。なぜなら、私たちが列に並ぶとしたら、それはStanza 5という指紋照合のための特別な部屋(Stanza)の前で、滞在許可証の交付窓口の門前ではないからです。この理由付けの基、片時も外で時間を消耗するまいと前進したのです。そして、いつも外の列をときどき観察に来る担当官に、Stanza 5に来るように言われてきたけど、そこはどこかと尋ねました。この人は許可証交付業務の監督官みたいな感じで、これまでの4年間ずっと感じ悪いなぁと思っていた人でした。でも、この日は、自分から先に立って、二階のその部屋に案内し、私たちの要件まで伝えてくれました。おっ!ちょっとおかしいぞ、どうかしたのかな?というのがこの日の第一印象。部屋には女性ばかり4人の担当官がいて、そのうちの一人に、今日は高精度の指紋読取装置が使えないから、こっちに来なさいと例の許可証交付窓口に案内されました。書類は約束通りSatanza5に移管してあったようです。それを持って、結局、前回と同じ指紋読取装置(小型スキャナーのようなもの)で再トライすることになりました。高精度でないと困るんだけどと言っても仕方ないまま、前回と同じ結果になるのではと、とても不安がつのってきました。そのうちいつも交付窓口で仕事をしている女性の一人が受け持つことになり、家内の前、窓口の向こう側に立ちました。そのとき、家内にニコッとしたのです。Big smileです。家内は気にしなかったようですが、私にはいい幸先に思われました。それから例の照合が始まりました。まず、右人差指、だめ、次中指、これもダメ、次薬指、やはりダメ、・・・と延々と繰り返していきます。指の腹側、そこから少しどちらかに転がして、手を左に変えてとか・・・。全部で300回くらいいろいろ試したでしょうか。そして、ついに”Ce l'ha fatta !(やったぁ!)”と小さく叫びました。そして、にっこりしたので、私は思わず窓口のガラスの下の隙間から手を差し伸べて感謝の握手をしました。最悪の事態、家内と別々に日本に帰らなければならないという事態が避けられた瞬間です。あのスマイルは、「今日は何としてもやってやるからね」という覚悟と自信を示すものだったかもしれません。それと、4年目になり、私たちが日本人であることを知っている人が増えてきたのかもしれません。これまでの警察へのいやな感情が氷解しました。少なくとも2017年についてはね。よかった、よかった。

(写真は、リフトから振り返りながら遠く下に見るマジョーレ湖。)

[滞在許可証の期限の余波。フライト予約の変更]

さて、滞在許可証が手に入ったものの、前回ちょっと触れた査証と滞在許可証の有効期間の重複の問題の存在が確定しました。11月に日本で査証申請、12月1日にイタリアに再入国の予定は実行できるのか。これを確かめるため、移民局で相談しようと、警察から帰ったその足で、局に行きました。

やはりここも予約が必要で、結局最短で10月26日の予約となってしまいました。帰国前に必要な査証取得のための手続があるとしたら、これも1週間かかる。しかも、約1ヶ月の日本滞在の前にはPratoで帰国前にやっておかなくてはならないことがありますから、これはもうどう考えても無理。結局、移民局での相談をするまでもなく、10月29日帰国の予定は断念しました。そして、新査証は2018年2月9日から有効なものとして申請しようと決めました。すると、イタリアへの再入国の日は査証交付日に余裕をもって2月15日とし、そこから逆算して、かつ、航空券が安くなる正月休みの後すぐ、1月9日(到着は10日)と決めました。フライトキャンセルによる一日遅れの可能性を加味すると、在日イタリア大使館への査証申請予約は1月12日ということになります。この線でフライト予約の変更手続が必要になりました。

フィレンツェ空港からの便はLufthansa航空では出発が14:35で風の影響を受けやすい時間なので、10月29日出発の航空券はAir Franceの20:25で予約してありました。Lufuthansaのエコノミーでは出発日変更ができなかったという記憶があったのに、Air Franceのエコノミーでは出発日変更ができ、望む出発日、離日日で予約できました。予約変更手数料は往復で二人分56,500円でしたので、まぁ仕方ないか、という金額でした。滞在許可証から派生して余分にコストがかかります。

[健康保険証]

イタリアでは国民と外国からの滞在者を対象としてSSN(Servizio Sanitaria Nazionale)という皆保険制度としての健康保険があり、その在住地域を管轄するASL(Azienda Sanitaria Locale)で手続きをします。私たちはPratoのASLに手続きに行きました。健康保険証の有効期間は外国人については完全に滞在許可証とリンクしています。但し、申請は滞在許可証申請書類を提出すれば、短期の保険証を交付してくれます。私たちの保険証は5月30日に期限が切れていたので、夏の帰国前6月5日に保険証の更新に行きました。すると、私たちの査証は就学目的なので、まず、所定の保険料を納めてその振込領収書を添えて、申請して下さいと言われました。まだ、滞在許可証が交付されてないし、間もなく日本に帰るので、9月になってからでもいいですかと聞くと、それで構わないという答えでした。そこで、Autocertificazione(自己申告)の話もありました。そこでこの自己申告をしてから、保険料を払うのかという推測の基、9月19日にASLに行ったところ、自己申告は保険証の交付を受けてからの手続きなので、それを済ませてから来てくださいということでした。どうも順番が堂々巡りでどうにも進まないなと思いながらいましたが、遅まきながら、滞在許可証がおりたので、11月8日に保険証の申請に行きました。保険料額が分からないので計算してくださいと頼んだところ、すごい高額になってしまいました。これを見て女性担当官は保険証は12月31日までしか有効でないのに、この保険料は高額だから、公的保険でなくプライベート保険に入った方がいいですよとアドバイスしてくれました。私たちのは就学滞在許可証だけど任意加入ということでいいのですねと確認すると、そうですと明確な答え。それでは、年を超えればすぐ日本に帰るのだからと年内は保険なしで行くことにしました。実際は郵便局の任意保険に入っていますが。イタリアの公的保険に加入するのは新査証がおりた後、イタリアに再入国後8日以内の滞在許可証申請に基づいてから申請しようということにしました。

ところが、自己申告の問題が残ってしまいました。私たちはイタリアの法令のすべてをきちんと遵守していたいのです。自己申告は私たちにとって義務なのかどうなのかが分からないのです。そこで、私たちの所得税申告をお願いしているCommercialista(税理士のような専門家)にメールで尋ねてみました。すると、ACLI(Associazione Cristiane di Lavoratori Italiani)という団体があって、そこですべて答えが得られるから、そこで聞いて下さいという返事です。ここも予約が必要なので、意を決して、ACLIのHP記載の番号に電話しました。すると、現在使われていませんという自動アナウンス。そこで、Commercialistaのメールに書いてあった番号に電話。違う番号だったけど、やはり使われてないというアナウンス。仕方なく、歩いてACLIに行きました。私たちの滞在許可証などの事情を話すと、他の人も呼んで聞いていましたが、結局私たちには分からないから、移民局に行って聞くのがいいと言われました。今日こそはこの問題に決着をつけるぞという勢いで、移民局に行きました。いつもとは違う入り口から入ると、何やらそれらしいポスターが貼ってあります。さて、どの部屋かなと見まわしていると、おじさんが現れて、要件は?これこれと話すと、それならこっちだよと、いつも滞在許可証の申請書類を用意してもらっている事務所に案内されてしまいました。すると今度はおばさんが出てきて要件は?これこれ。するとカウンターの向こうへ行っていろいろ話しています。そして、呼ばれて、どうのこうのと聞かれたり言うので、そういうことはすべて分かっていて、知りたいのは保険に加入していない私たちにAutocertificazioneの義務があるのかどうかということで、その点についてはどうなんですかと問い直すと、ASLに行くのがいいということになりました。なーんだ。結局誰も知らないんだ。どうせ、こんなことだろうと思っていたけど、どうしてこうなるのだろうと考えてしまいました。イタリア人は大体親切で人の役に立ちたいと考えています。でも、そのため、一歩踏み込んだ知識の獲得のための努力まではしないか、またしようとしても情報が得ずらい。それに人の話を最後まで聞かないうちに、自分の思い込みだけで、しゃべり始めるのです。今回初めて「Ascolti」(私の言うことを聞いて下さい)と言ってみました。ということで、自分でネット検索をして調べたところでは、このAutocertificazioneは救急車を呼んだ場合の割増料金などの賦課を所得レベルによって軽重をつけるための情報で、私たちのように未加入者の場合には、義務ではないということのようです。これも新査証での再入国後に手続きしましょう。

(写真はロープウエーの終点からリフトに乗り継ぎ行きついた山頂からの眺め。こんもり遠くに見えるのはスイスとの境のモンテローザか)

[旅行のことなど少々]

日本から9月13日に郵便局から発送した小荷物が到着したようです。配達時不在通知が投函してありました。郵便局のHPから追跡してみると11月7日にミラノの税関に到着したようです。思ったより早いなと、私はてっきり小荷物を受け取れるものと喜んで早速18日受け取りに行きました。しかし、受け取ったのは、通関のための情報が足りないから同封の書類に記入して返送するようにという手紙だけでした。がっかりしました。すぐ返信しましたが、通関にどれだけかかることか。実際に配達された場合、受け取らないでいると私の配達条件と料金では30日間で廃棄されることになっています。したがって、配達日が1月9日から18日の間になった場合は私たちは受け取れず、廃棄になってしまいます。ずっと、ここに居ないと具合が悪いことで予想外のことがいろいろあります。

最後にざっと旅行について。まず、ベネチア着、一日半ベネチア観光、プラートに移動して4日を過ごし、その間プラートでの買い物、ピサ観光、ポッジョ・ア・カイアーノの別荘見物などをしました。その後、北イタリアのマジョーレ湖畔のストレーザで2泊。ミラノ空港へはストレーザから比較的近いところからこんな行程デザインに。私は残念ながらベネチアからの電車の中で風邪をひき、プラートでは寝込んでいました。それでも、ストレーザへは皆に風邪をうつさないようにと注意しながらも同行しました。この季節、きのこの生ポルチーニが出回ります。ピッツァ、パスタ、いろいろな料理によく合います。特に美味しいのが簡素にしょうゆ味で、でもちょっと贅沢にポルチーニの和風ステーキ。このようにポルチーニを使ったいろいろな料理を堪能できるのがこの季節のいいところ。私以外は皆、事故も病気もなく旅程をこなせてよかった。

今日も長くなってしまいました。ではこの辺で。皆さん、ごきげんよう。
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滞在許可証はまだ半分

(2017-09-28)
(写真は羽田から離陸後まもなくの窓から)

前回のブログ更新から既に3ヶ月超経ってしまいました。この間に日本に戻り、大半を山小屋で過ごして 家族、兄弟、友人、知人たちと再会することができました。山小屋では、屋根・ベランダの修繕、外壁のペンキ塗り、10年ぶりの床のワックスがけ、キツツキが庇下に開けた穴塞ぎ、家の周りに生える外来種のハンゴンソウの駆除、ツバメ万年青というかわいい亜高山植物を鹿から保護するための囲い作り・・・など、毎日何かしら肉体作業をやっていました。今夏で築後24年経過した山小屋は、家内と一緒に構想・設計し、調度を選び、維持修繕を重ねてきたものでもともと愛着がありますが、近年はイタリアから帰国したとき長期間落ち着いて過ごせる場所という意味合いが強くなったためか、かつてより大事な場所のように思えています。体が言うことを聞くうちは、手をかけて、維持したいと思います。そんなわけで本業のDatiniの方はあまり進みませんでした。

Pratoに戻ったのは9月14日、ミュンヘンでの通関の際、期限切れの滞在許可証がトラブルを引き起こすこともなく、また、フィレンツェ空港での心配された風も何とか到着までにはおさまって無事に帰還しました。フィレンツェ空港に着陸できない場合はピサ空港に下りる予定だという機内アナウンスがあって弱りましたが、そうならずラッキーでした。なにしろ朝起きてから24時間近く経過しているので、さらに延べ70-80km離れたピサからフィレンツェ空港までバスで送ってくれるのかもしれませんが、そこからさらにPratoに移動しなければならないので、かなりきつくなります。

さて、戻った翌日の15日、早速、滞在許可証を受取りに警察に行きました。私たちは日本に携帯を持ってきますが、SIMはそのままですので、電話はできません。にもかかわらず、8月1日に外国のPrato警察からSMSが入り、8月30日に引取りにくるようにと連絡がありました。携帯通信のメカニズムはどうもよく分からないところがあります。それはさておき、8月30日に行くのは不可能なのでPratoに戻り次第行くしかないと思っていたのです。その日は、多分、列ができていて、警察の外で待たされるんだろうなと予想し、早めに昼食を済ませて1時前に着きました。案の定、あまり列ができていません。すると警察のおっさんが出てきて、一人一人お決まりのチェック(郵便局での滞在許可証申請のための書留郵便控)をして、館内に誘導し始めました。私たちも当然入っていくと、SMSを見せろと言います。持ってきてないと答えると、それなら、警察への出頭日がいつなのかが分からないから入れないと言われました。そこで、一旦家に帰り携帯を持って再度警察へ。そして、今度は列を無視してさっきの担当者に持ってきたよと携帯のSMSを見せました。すると驚いたことに、なんだ、これは申請でなくてritiro(滞在許可証の受取)じゃないか?などとのたまうのです。この人全然分かってません。なぜなら、滞在許可証の申請については郵便局での申請時に出頭日が指定され、SMSは来ないからです。それで、自分では分からず、警察の別の女性担当官に尋ね、指定日後の滞在許可証の受取日は月曜日だけで、その14時半から16時半だと答えてきました。何だって?それなら今日再びここへ来なくてもよかったじゃん・・・最初からそう言ってくれればいいのに。

さて、月曜日(9月18日)、13時に警察に着き、また列100人以上。1時間ごとに10人位ずつしか入れないので、最初は列の前の方だったのに、東欧系、インド系、中国系の人間が段々前に割りこんでしまって、30番位になり、結局5時を過ぎてしまいました。この日は午後ずっと雨なのに、それでも皆帰らずに待っているので、待ち続けていると、5時20分頃、係官がでてきて、全員をどさっと入れてしまいました。そのときの入れ方が奇妙で、列の最後尾に並んでいた連中を先に入れ、家内と私は結局最後に入る形になりました。中に入ったと言ってもまだ25m位の廊下みたいなところで、窓口のある建物の入り口はその向こうにあるのです。結局入れるのなら、最初から入れればいいのに、雨にしょぼぬれて人を待たせるのを楽しんでいるのか、と言いたくなります。 さらに待つこと2時間、夜7時半過ぎにやっと私達の番に。そうしたら、郵便局での振込伝票を見せろというのです。今年の6月9日から規則が変わって受取には一人40ユーロの支払いが必要だというのです。警察のHPにもそんなこと書いてなかったし、SMSにも書いてない。15日に2回も来たときにも、そのことは言われず、その日に列を作っているときにも何も言われない。そして、6時間半も待たされて、やっと、今日は受け取れないことが分かる・・・ってどういうこと?でも、私達は日本人で少数民族なんです。滞在許可証を申請する多数民族はPratoでは中国人(中国の都会人でなく、多分南部の特定の地域の人)です。彼らはコミュニティを作り、弁護士を雇い、お互いしっかり連絡を取り合って、準備万端列に並ぶのです。そして、列に並んでいる最中も携帯で話しっぱなし。警察からすれば、殆どの申請者が知っているのだから、私達のように例外的な少数の人間を特別扱いできないということなのでしょう(そんなことに思い至ったのは昨日26日、Cさんの家で画家のGさんとディナーをご馳走になりながら話していてやっと合点がいきました)。いずれにしても、その翌月曜日にまた列を作る憂鬱を抱えながら帰宅しました。その前に80ユーロの支払を済ませてね。

(写真は友達のMarioがPratoのパン屋さんと共同開発したイチジクの葉のフォカッチャ。80%とうもろこし粉で、ひまわりの種がたくさん入っていて、おいしい。パン屋さんのちょうど前がPratoのドゥオーモの裏手にあり、その壁に当時の職人が手慰みに彫ったイチジクの葉の彫り物があり、そこからヒントを得て作ったお菓子。)

さて、その翌月曜の25日。どうせ、5時になれば在庫整理のようにどっと入場させるのだから遅くてもいいや、と午後4時頃出かけました。列は40人弱、意外と少ない。5時過ぎまで殆ど入れて貰えず、列は減りません。そして、例の在庫一掃入場。廊下みたいなところでの渋滞はなく、一気に建物に入れました。でも、なかなか処理が進みません。見ていると、該当の滞在許可証を見つけるのに手間取っているようです。そんなことは14時半前に整理しておくのが当たり前だろうと、しかも、40ユーロも取っていながら、と思うのですが、私の当りまえは警察では全然当たり前でないのです。何とか私達の番が来て、まず、家内。滞在許可証も見つかって、データの照合も済んで、最後に申請時に登録した指紋との照合。まず、右人差指、合致しないようです。次に右中指、やはり、駄目。家内は皮膚がデリケートで、日本の多湿な気候では問題ないのにここでは湿度が低いので、途端に指の皮膚が痛んでいくのです。15日にここまで到達できれば、まだ帰ったばかりで、いい状態だったのに、と悔やまれます。何度も他の指で照合を繰り返しても旨く行きません。そこで、私に交代。すんなり指紋照合も終わり、滞在許可証の交付を受けました。あー、やっと半分終わった・・・と思うのも束の間、見ると有効期限が2018年2月8日になっています。これは困った!難題を抱え込み、ガクッと腰が落ちるような気がしました。なぜ、難題なのか?

実は、私達は夏の帰国時に、現在の就学ヴィザをResidenza Elettivaヴィザ(以下では、短くREヴィザと呼びます)に変更するため、イタリア大使館で申請を試みました。提出書類について外務省でアポスティーユを取得し、それを大使館登録の宣誓翻訳士の方に翻訳依頼し、その翻訳士さんが大使館に出頭して宣誓供述書の認証を受けるというような書類も含まれています。なぜ、REヴィザに乗り換えるのか?それは就学ヴィザでは何年イタリアに居住しても、毎年1年限りの滞在許可証を申請し続けなければならないのに対し、REヴィザは6年経つと、更新不要の滞在許可証の申請ができるからです。更新不要の滞在許可証?もう、列に並ばなくてもいいの?そうです。これがなければ、イタリアはとってもいいところなんです。ただ、如何せん、この滞在許可証の申請と受取り、これには筆舌に尽くしがたい苦難が伴っています、特にここPratoでは。ですから、これさえ要らなくなれば、どれだけいいことか。ところが、REヴィザの有効期間と滞在許可証の有効期間に重複があってはならないということになっています。このため、7月19日にイタリア大使館でREヴィザを申請したとき、日本からの出国予定日(帰国のフライトの出発日)が9月14日だったので、REヴィザの開始日が9月14日になってしまい、これは申請中の滞在許可証が11月30日までなので、9月14日から11月30日までの重複期間が生じてしまいこれが問題となります。イタリアに戻った後、滞在許可証を受領して、それについて、どのように9月15日以後無効にするか分からなかったために、ヴィザ申請を取り下げたのです。そして、11月1日に改めて日本に戻り、12月1日以後に有効となるREヴィザの申請をしようと考え、飛行機の予約(出国日は12月2日)も済ませておいたのです。あー、それなのに、・・なのに!これでは、今度は12月1日から2月8日までの重複が生じてしまうではありませんか。私達の申請は11月30日までなのにどうしてこんな勝手なことが起きてしまうのか?もし、私達が研究招請状の期間を超える滞在許可証を申請したとしたら必ず却下されます。申請者に対して適用されるルールと警察に適用されるルールが違うとしか言いようがありません。まぁ、このことについては後で対処しましょう。

話は家内に戻ります。家内は窓口の内側に呼ばれ、そこで改めて指紋照合を繰り返しています。さんざん試みた後、結局、今回は断念ということになり、改めてまた翌月曜日に照合することになりました。但し、もっと精度のいい機械で。その日はもうその機械がある部屋も担当者も帰ってしまった後なのです。そして、やはり、不可となった場合は、ローマに滞在許可証を送り返し、指紋照合不可者用の滞在許可証を発行するらしい。なんとまだるっこい!そのまま渡せばいいじゃん。でも、それができないらしい。そうなると、受け取りは70日後位になってしまいそう、2015年にあった経験からすると。そうすると、受取りは12月半ば。参った。それでは、予約した飛行機に乗って出国できないことになります。で、私達の11月中にREヴィザに切り替える計画はあえなく、崩れてしまいそうです。後は神頼みのみ。

ざっと、こんな状況です。ややこしいですね。結局どうなるのでしょう。いつまで続くぬかるみぞ!


Zibaldone構想

(2017-06-19)
(写真は家から見えるCalvanaの丘。ジネストゥラが山頂付近を黄色に覆っています。これは染物用の釜の燃料として利用されていました。ということは、刈り取って里まで運んできて、売って、多少の収入を得ていた人がいたということになります。)

     4月10日に、待ち焦がれたDatini研究の必読書、Federigo Melis著、Aspetti della vita economica medievale.(Studi nell'archivio Datini di Prato)(経済面から見た中世生活の諸相(プラート国立古文書館での研究)、1962発行)という本が届きました。かなり古い本ですし、需要も多いので、あちこち古本屋を覗いてみても見かけることはなく、半分あきらめていました。でも、もしかしたらAmazonにあるかも知れないと思いついて検索したところ、偶然見つけ、すぐ注文して手に入れることができたのです。ちなみに価格は120ユーロ、今Amazonで売りに出ているのは220ユーロですから、随分価格にぶれがあります。 この本も大きくて重いので、日本に帰るとき、とても持ち運べません。そこで、とりあえず必要なところをスキャンしてPDFファイルにしてPCに保存しました。

    そんな準備を経て、第4部、簿記、の部分を読み始めたのが4月18日。それから毎朝5時から6時半までこの本を読んでいます。とは言いながら、本を読むというより辞書を引いていますと言った方が合ってます。前の日に読み進んだ箇所を読みかえすと必ず意味のはっきりしない言葉を再発見するので、辞書を引きなおします。そして、関連する単語を引くと、また、分からない単語や理解のあいまいな言葉が出てくるのでまたこれを引き、、、と繰り返してるとすぐ6時になってしまいます。私はイタリア語が大してできないのに、最初から伊伊辞典主体で勉強してきました。最初のうちは、どころか、つい最近まで、ひとつ分からない単語を引くとその数倍分からない単語に出会ってしまって、それを一つ一つ引いていると、どんどん分からない単語が増えていき、辞書に挟むしおりがどんどん増えて、しばらくすると、最初に引いた単語は何だったっけと思い出せなくなり、入り口も出口も分からない迷路で立ち往生してしまうのです。記憶力の減退は否定のしようもないものの、これは辛いし、悔しい、希望というものが失せてしまいそうになりますよ。
    でも、こちらに来て3年半、そんなことを繰り返して、最近は伊伊辞典を引いて、ようやくその引いた単語の箇所で6割くらい意味が分かるようになって来ました。それと最近は辞書を引く傾向が変わってきて、熟語というか単語の組み合わせに注意し、言葉をひとまとめで理解するようになってきたような自覚があってうれしいです。もちろん、聞き話す方は殆ど進歩がありませんが。会話はなかなか繰り返しが難しいので、こちらは、まだ当分駄目でしょう。

    そんなことを続けながら6月14日、よちよちと38頁読み進みました。AspettiはFederigo先生がDatini帳簿からどんな風に何を読み取ることができるかを、懇切丁寧に、そして情熱的に、細かい点にも注意を促しながら書いていて、とても勉強になります。さて、そこで出会ったことばが「zibaldone」です。zibaldoneを辞書で引くと、「(文章の)寄せ集め、雑録、雑記帳」と書いてあります。伊伊辞典では「無秩序にメモ、身辺のできごと、思いついたことなどを書き留めておくための本、ノート」と説明されています。私も大学入学後、日記帳は続かないので、折々に思いついたことを書き留めておく雑記帳をつけていました。それを思い浮かべてこの「zibaldone」という言葉にとても惹かれるものを感じました。そこで他にどんな意味があるのかについて知るために、インターネットでこの言葉を検索してみると、Giacomo Leopardo(1798年6月29日ー1837年6月14日)という人の「zibaldone」がリストアップされました。レオパルディは「十九世紀のイタリア最高の詩人、というよりペトラルカ以後の最高の抒情詩人」(脇功氏)といわれるものの、日本ではそれほど知られていないのではないでしょうか、私も知りませんでした。

    さて、この「zibaldone」をシステムとして独立させ、Datiniシステムからの別バージョンとして、経済史研究家の知的生産のための道具として雑記帳のように使えるシステムとして育てていこうと考え始めたのです。古文書館で古文書を読む人達のやっていることを観察していると、必ずメモをパソコンに入力し、そして大事なところを写真に撮ったりしています。そこから触発されました。

    まず、第一に画像については、私達は全部のDatini帳簿を撮影するつもりですから、Datini帳簿に関する限り、そして、プラート古文書館が私たちが撮影した帳簿画像を公開する限り、いずれ、この来訪者の撮影作業はすべて不要になるどころか、そもそも古文書館まで足を運ぶ必要がなくなります。この点については、現在のDatiniシステムと新たに構成するzibaldoneシステムとで基本的に変わるところはありません。しかし、Datiniシステムはピサ、ジェノヴァ、フィレンツェ、バルセロナなど8つある商館ごとに作成しますから、画像はその商館に属す帳簿画像だけ見られるようになっています。しかし、研究者は、おそらく各商館だけでなく、8つの商館すべてを対象として横断的に考察を進めるでしょうから、zibaldoneシステムでの画像表示は(商館ごとのLocalなものに対して)いわばGlobalな表示機能が求められるでしょう。この機能は新たに拡充する必要があります。

    第二に、メモについてはDatiniシステムの変形として、次のような方法が考えられます;
現在は帳簿画像を見ながらその左側の列に仕訳番号を入力します。そしてこの仕訳番号に対応して、手書きの仕訳をひとつひとつ漏れなくタイプ起こしして、ダイアログ(PC上にポップアップ表示する窓)を通じて、写真と対応できるようにしています。これに対しzibaldoneシステムでは、手書きの仕訳のタイプ起こしは私たちは行いませんし、他の誰も行いません。その代わり、ユーザーはテキスト入力箇所(仕訳の備考欄)を、各自、自分のメモ、要点、考察などを書き込むための雑記欄として使います。これは仕訳の備考欄とは異なった性格を与えられることになりますから、貸借のバランスという簿記の要請からは自由になります。但し、雑記欄は画像とリンクする必要がありますから、仕訳番号の付番作業は省けません。

    第三に、現在のDatiniシステムに備わっている仕訳の相互参照機能をzibaldoneシステムではどう扱えばいいかという問題があります。この相互参照機能は一対一(または一対多)の一組の仕訳を一覧表示するためのものですから、これらを関連付けて同時に見られることは重要です。経済史研究においても、仕訳を一組として見ることによって、その取引(経済事象)をより具体的に見ることが可能になりますから、zibaldoneシステムでは、この相互参照機能はやはり欠かせないものとして機能するでしょう。ただし、仕訳のバランスという制約から解放されているので、どんな他の仕訳(雑記欄)とも、思考上関連するものがあれば、すべて相互参照する方がより豊かな論拠を提供できるので、この相互参照機能は、商館の枠を超えて、より活用されることになるでしょう。

    第四に、現在のDatiniシステムがもっている貸借対照表、損益計算書作成機能はzibaldoneシステムではどう利用可能でしょうか?これについては、全く想像できません。バランスしない仕訳から集計値を作ったとき、結果として出てきた数字の意味は、各仕訳に与えた勘定コードと各仕訳に割り振った金額によって左右されるでしょう。しかし、貸借対照表、損益計算書の各勘定項目をひとつの論文の章節項目として再構成すれば、現在のDatiniシステムの勘定分析機能を使って、各目次に対応する仕訳(雑記欄)の一覧を表示させることができます。
(写真は我が家の家庭菜園のバジル。去年撒いた種の一部を今年撒いたので、危機感を抱いたせいか花を咲かせてしまいました。けなげだなぁ。)

    私たちの存命中に8つのDatini商館のすべてについて、Datiniシステムの仕訳備考欄ばかりでなく、金額欄、日付欄、勘定コード欄、為替レート欄等をすべて入力し、会計システムとして完結させることが到達し得ない目標であることははっきりしています。でも、それが、人類共有の貴重なDatini帳簿の唯一の活用策かと考えると、答えはNOです。また、長々と書いてしまったこのzibaldoneシステム。これはかなり有望な打開策ではないかと思います。私たちが他方で継続するテキスト起こし、これは私たちの心行くままの「研究=趣味・娯楽」という位置づけに変わるかもしれません。私たちの日々やることは同じとしても。

    明日はA博士がフィレンツェ大学で指導する学生の研究論文で私たちが作成した分析データを利用したいということで、打ち合わせがあります。これもPratoに来て初めての経験です。その場でzibaldone構想について、ご意見を伺おうと思っています。


Gigliola CinquettiのNon ho l'età

(2017-05-17)

(写真はヴェローナのジュリエットの家。観光客がジュリエットのようにバルコニーから姿を見せている。2011年9月23日撮影。)

ジリオラ・チンクエッティ(Gigliola Cinquetti)が1964年、16歳でサンレモ音楽祭で(non ho l'età) を歌い優勝したイタリアの歌手であることは、私たちの世代の方はよくご存知のことと思います。ちょうど東京オリンピックの年で、私が中学2、3年の頃です。彼女の歌声も、伊東ゆかりの「夢見る思い」も、私の遅い思春期を呼び覚ませるものでした。Gigliolaとはgiglio(ユリ)の花と何か関係があるかもしれません。イメージに重なるものがあります。この歌の主人公もまた思春期で、まだ二人だけでデートするには若すぎるけど、もう少し待っていてくれれば、あなたの愛にこたえられるようになるとせつせつと歌っています(サンレモ音楽祭で優勝したときのビデオはこちらをクリック)。Peggy Leeの歌もいいけど、こちらはまた、おそろしくしろうとっぽいのに、聴く者の心をとらえるものをもっていて、これも歌ヂカラのひとつのかたちではないかと思うのです。では、歌詞を見てみましょう。日本語の二重括弧は私の訳ないし補足です。うまく整列できないので読みづらいとは思いますが、ご勘弁を。

Non ho l'eta   私はまだ 大人じゃない 《まだその年になってない》
Non ho l'eta   私はまだ 大人じゃないの
Per amarti    あなたを愛するには《ここでtiはかなりの親近感を表す》
Non ho l'eta   私はまだ 大人じゃない
Per uscire    出かけるには《uscireはデートするという意味》
Solo con te   あなたと二人だけで

E non avrei    そして 私は持ってないけど
Non avrei nulla 私は何も持ってないけど
Da dirti   あなたに話すことが《ここもti、2人称単数》
Perche' tu sai  でも あなたは知っている《ここもtu、2人称単数》
Molte piu cose  もっと多くのことを《はるかに多くのことを》
Di me    私よりも

(※) Lascia che io viva 私が(今を)生きるために 彼は去るの《誤訳。私がその年になるまでの束の 間、私を想いに浸らせてね》
Un amore romantico   このロマンティックな恋から《ロマンティックな愛の想いに》
Nell'attesa    彼について行くわ《その日を待ち焦がれながら》
Che venga quel giorno  その日が来たら《その日が来るまで。vengaは接続法、一人称単数。まだ非現実。》
Ma ora no    今はそうじゃないけど《でも、今はまだ、だめ》

Non ho l'eta    私はまだ 大人じゃない
Non ho l'eta    私はまだ 大人じゃないの
Per amarti    あなたを愛するには
Non ho l'eta    私はまだ 大人じゃないの
Per uscire    出かけるには
Solo con te    あなたと二人だけで

Se tu vorrai    もし あなたが望むなら
Se tu vorrai    もし あなたが望むなら
Aspettarmi    私を待っていて
Quel giorno avrai    その日にあなたは 手に入れるでしょう
Tutto il mio amore   私の 愛のすべてを
Per te    あなたに《(あなたへの。ここもte、2人称単数》
(※以下、繰り返し)

まだ、その年になっていないことを歌っているものですぐ思い浮かぶものには「Too young」があります。

Too Young

They try to tell us we're too young
Too young to really be in love
They say that love's a word
A word we've only heard
But can't begin to know the meaning of
And yet we're not too young to know
This love will last though years may go
And then some day they may recall
We were not too young at all
And yet we're not too young to know
This love will last though years may go
And then some day they may recall
We were not too young at all
ナット・キング・コールとナタリー・コールのビデオはこちらをクリック


この二つの歌はとても対照的です。GigliolaのNon ho l'etàは待つのに、Too youngは全然待ちません。人がなんと言おうとこの道を進む、後から振り返ってみて、私たちが若すぎたわけではないことを納得するだろうというわけです。ここにイタリアの保守性、家族との絆、そしてアメリカの進取の気性、独立精神が典型的に現れているように思います。イタリア人のセンティメントは日本人のものに近い気がします。イタリアの子供はそれぞれとても大事に育てられているので、簡単にはしがらみを断ち切れないのでしょう。そう言えば、ロメオとジュリエットは北イタリアのVeronaでの話が原作とのことですが、GigliolaもVeronaの出身です。それにしてもGigliolaの初々しさは創りようがなく生まれたもので、何とも尊い気がします。ぜひ、Youtubeを見てみて下さい。今回はなぜか突然歌の話になってしまいました。(前回のブログをご覧になっていない方はぜひそちらもお読み下さい。)


プラート古文書館との合意書締結

(2017-04-26)
2017年4月25日(写真はベランダに今咲いている我が家のバラ)

   Prato国立古文書館(ASPO)と基本合意書を締結しました。署名者は女性館長のT博士と私と家内です。正確な名称はとても長く、「Datini帳簿に関する情報システムの開発と共同使用によるPrato古文書館所蔵のDatini古文書活用のための合意書(Accordo per la valorizzazione dell'Archivio Datini conservato presso l'Archivio di Stato di Prato attaraverso lo sviluppo e la condivisione di un sistema informatizzato relativo alla contabilità datiniana)」です。合意書原案を受取ったのが4月13日、先方の誠意になるべく早く応えようと連日がんばって対案を書込み、4月17日にボールを投げ返して19日に話をし、その場で合意しました。この合意書はお互いが持っているものを結集しDatini帳簿がもっと活用されるように協力すること、そして双方とも他方に対価を支払うことはないということを約束するものです。私たちの作業が無償であることは変わりません。但し、古文書館はインターネット上で公開するための予算措置を国に要求していくことになります。

   この合意書締結までの経緯は2015年10月21日の先々代館長さんがSienaの国立古文書館に異動されたご挨拶のパーティーに遡ります。そこでT博士に初めてお会いしました。その年12月初めにT博士は名古屋を訪問すると聞いたので、それなら紅葉の綺麗なところへ行かれたらいいですよというお話をしました。その後、昨年2016年3月に中京大学の古文書管理状況視察団のASPOご訪問の際、お声をかけて頂いてちょっと同行し、また、夜の食事にもお付き合いさせて頂いたのが2度目。そして昨年6月24日、私達のシステムの実演を見て頂いたのが3度目。その後私達のシステムからインターネットに直接繋げて仕訳と古帳簿の画像を見られることの実演をした12月13日が4度目。その日にT博士から契約書を作りましょうという話がありましたので、この合意書はその提案日からちょうど4ヶ月を迎えた日(イタリアにしてはかなりいいペース)に、具体的なたたき台の提示があったことになります。T博士はToscanaの古文書館全体を統括されている方ですが、現在ASPOの常勤館長職は空席で、T博士がピンチヒッターで兼務されています。ご自分がASPOの館長である間に、合意書を作成し、今後の道筋をつけておきたいというお考えもあったかもしれません。もちろん、ずっと私達を陰になり日向になり助けてくれているC嬢からのこと細かい進行状況の報告がT博士に届いていたはずですし、私達のシステムのテストをC嬢と一緒にやってくれている私と同年代のMario(このブログ2016年3月4日号のMさん)の奥さんがT博士のPratoの名門高校の同輩であることから、Mario経由でT博士はいろいろ私達のことをお聞きになっていたという状況もあるでしょう。Marioと奥さんは私達をこれまで2回夕食に招いてくれました。こういう中でなんとなくお互いの信頼関係が育っているなか、合意書はスムーズに結ばれたと思います。

   加えて、T博士は2004年にElena Cecchi博士の編纂により発行された「Datiniのアヴィニョン商館に関する古文書目録」への序文を当時のASPO館長として書いておられます。私達はそれを一応読んでいましたので、そのDatini帳簿に対する熱意はよく分かっていました。特に、Datiniの書簡類はよく利用されるのに対し、世界に誇るDatini帳簿があまり利用されていないことに当時から着目し、これを何とかしたいという思いをずっと持ち続けていたのだと思います。C嬢はCecchi博士に手取り足取り教えて貰いながらASPOの古文書を整理してきた人でもあります。Cecchi博士は2014年2月か3月頃、小学生にDatiniのことを紹介する特別教室に来られたときに(このブログの2014年2月21日号の中のEC女史がこのCecchi博士)、当時執筆中の中世帳簿の略語便覧草稿をASPOに通い始めて間もない私達に下さった方です(ASPOに通っていると中世経済史の研究家とお目にかかる機会に恵まれますが、引き合わせてくれるのは決まってC嬢です)。そんな訳で、T博士と私達のめざすものが一致していることはずっと前から分かっていました。

   私たちが対案として書き加えた点は三つあります。まず、私たちの開発中のシステム(LCDD:Libri Contabili Digitalizzati delle aziende Datini)が私が公開している会計システム(3D簿記システム)からの派生物であり、3D簿記について私が適用しているGNU GPL ver.3がASPOについても適用されることを受け容れること。第二に、Datini研究所のC女史、N教授、A博士から得たご支援・ご指導にLCDDが多くを拠っていることの文言を合意書前文に含めること、第三に、LCDDについての著作権が私たちに帰属することをASPOが認めること、この三つです。これが受け容れられれば、私たちがそれ以上要求するものは何もありません。ところが、4月19日の冒頭で私がT博士に確認したところ、すべてOKということでしたので、実は交渉事の中心はすでに多分前日に解決済だったのです。
(GNU GPL ver.3についての追記。これはソフトウエアを無償公開する場合の権利関係を規制するしくみのひとつで、copy right(著作権)をもじってcopy leftの著作権と呼ばれます。原著作者(=私)はソースコードも公開し、利用者はソフトウエアの改変も自由に行うことができますが、同時に、改変後のソフトウエアを公開する義務を負います。改変を経ても公開性が継承されていく=残る(left)わけです。私が改善・強化していく気力・能力を失った後も、LCDDが独自に新しい生命を取り込みながら発展していくDNAを私の願いとともにGPL ver.3として組み込んだものです。ご興味のある方は「gpl v3 日本語」で検索してみて下さい。)

   当日は「それでは今日は英語で話させて下さい」と断って、この合意書についての私の解釈を話しました。通常のビジネスでは、この合意書はJoint Venture Agreement(合弁契約書)とソフトウエア・ライセンス契約書の合体したものに相当すること、事業の目的は、Federigo Melisさんという中世経済史研究のスーパーマンの業績を凌ぐ研究が行えるようなシステムとユーザーサポートを提供すること、合弁なので、例え想像上のものであっても、協働システム(Chester I. Barnardがその近代経営学の名著、The Functions of the Executiveのなかで使っている«Cooperative System»)が必要であること;私が研究開発部門のトップ、家内が手書帳簿のデジタルテキスト制作部門のトップ、同時に手書帳簿のデジタル画像制作部門のトップ、T博士は販売・マーケティング及びPublic Relations部門のトップ、C嬢はCustomer Support Service部門のトップですとざっと指名してしまいました。まぁ、想像上のことだからいいかという感じで、ニコニコ聞いていてくれましたが。でも、ここはイタリア。物事の進行は国の予算も絡むので、LCDDの公開に向けて、いつまでにどこまで進むかは神のみぞ知る。日々一生懸命やりながらも、のんびり構えているつもりです。ただ、C嬢へのLCDD使用に関するトレーニングは、この5月から一週間あたり5時間かけて、大っぴらに始められます。C嬢はやる気満々ですので楽しみです。


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